昭和四十七年二月十七日 朝の御理解
心中心でいく信者が神の忠臣じゃ
X御理解第九十四節「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
どうしても自分中心になって参りますと、自分を大事にして下さる、大事にしてもらう人をやはり大事にする。ここではそれを教師・信者のことについて御理解下さってあるんだと思いますね。例えばお供え物をどんどんさせてもろうたり、親先生に喜んでもらうような奉仕が出来たりすると、先生がその信者を大事にする。どうしても、そこに、不同の扱いということになる。それではならぬから、そこのところを戒めておられるのでございましょうね。
ですから、私どもが本当に心掛けておりませんと、ついそういうことになって参ります。そこでやはり取次者として、本当にこの神心というか、が強うなって行かなければなりません。本当にお供えしたいと思うてもお供えも出来ん、それをお供えしようと思えばどんどん出来る。
そこでこれはまあ私の場合であると、お供えも出来ん程しの、しようと思うても出来んと思う人の上に、私はとりわけ心を使わせて頂くというのでなくて、使う性分です。その点、本当におかげ頂いとる。それでも厳密に言うとです、本当に神様の気感にかなわぬことどもの多いことはもう、言うに更なりで御座いますけれども。
これは信者、先生ということだけでなくて、お互いの日常の生活の上に於いても、やはり人間を重く見たり、軽く見たり、あるだろうと思います。そういう心がやはり神の気感に適わんから、やはり神の氏子としての見方、あの人もやはり神様の氏子であるとしての考え方が、いつも心の中になからなければいけないと思います。人が軽視したり、軽蔑したりするような人でも、よくよく見せて頂くと、成程、神の氏子としてすべてのことと見えておる人であって、人間の見た目にはわからない、神様氏子としての見方、そこに誰も彼もない、いわゆる物を軽う見なとおっしゃるが、「人を軽う見な」人を神様の氏子として見るとこう言う、最後に、「信心の篤いのが真の信者じゃ」とこう仰っとられます。
ですから今日は九十四節の教えには少し外れるかも知れませんけれども、信心の篤いのが、真の信者じゃと、そこでなら信心の篤いのが、真の信者であるから、その真のおかげ
に触れておる。神様が手篤う扱うて下さらなければならないはずでございますね。神様から手篤う扱われておる人、いつもいらいらしたり、腹が立ったり、妬んだり、憎んだりするような人は、これは神様に大事にされていないとまず思わなければなりません。神様に大事にされておるという人は、いつも心が穏やか、いわゆる神様から丁重に扱われておる印なのです。第一心配がない、不安がない。神様に丁重に扱われおるから、物に不自由をしない。もうすべての点に、神様が丁重に扱って下さる。
これはまあ、信心の篤いのが真の信者じゃとおっしゃる。真の信者を目指して行く過程に於いてです、成程、物やら金には恵まれてはいないけれども、その心を神様が認めておって下さる。その心を神様が認めておって下さる。その心を神様が丁重に扱って下さる証拠に、どのような中にあっても、有難い勿体ないという心を、私は頂いておる人が、信心が篤いのであり、真の信心を頂かして頂いておる人だと思います。
私はここら辺のところを思うてみますのに、「不同の扱いをすな」と仰っておられる。だからそういうことを心掛けにゃいけんのですけど、やっぱり神様でも不同の扱いをなさっとるように思います。第一器量の良かつやら、器量の悪かつやら、神様は作っておられる。女の人は山本富士子のごとあるとばっかり作んなさりゃよいけど、間には飯田蝶子のごとあるともあれば、笠置シズ子のごとあるとも居る。と言う訳なんです。
だから神様もやっぱり同様には扱ってござらん。お金の中に埋まっておるような人があるかと思うと、それこそ百円の金がないという人もある。しかしそれは結局、氏子が受け心が悪いと言えばそれ迄ですけども、だからそういう大きな見地から私は見ますとですね、不同の扱いをするということはですね、只一様に扱うということだけではないということです。
久富さんにも茶を上げたから、高橋さんにもお茶を上げんならんということではない。秋永さんにもお酒を上げたら、やっぱり永瀬さんにお酒を上げなければならんということはない。永瀬さんにお酒を上げて、秋永先生には、お茶でも上げる。それが私は同様だと思うのですよね、実際は。なぜって、秋永さんはお酒を余り好まない方でしょう。永瀬さんはお酒を好なさる方でしょう。だから却って、「さあ秋永さんお酒を」と言えば、却って秋永さんを苦しめることになるのですよ。ですからそれは、同じなのです。だからそういう、見方をもって、私は不同の扱いをすなという風に、私はいつも焦点を置いとります。
そこからですね、私どもが、いわゆる真の信心を目指さしてもろうて、これは私自身手厚い信心をさせてもろうて、真の信者にならして頂こうと努めさして頂いて、それで段々、神様から手篤う扱うてもろうておるなあということは、私の心の中に限りない有難いというものがあるということ。不平不足がないわけじゃないけれども、もう誰よりも少ないと私は自分でも思うです。不平不足がない。人を好むということも、憎むということもない。厳密に言えば、どうかわかりませんけどね、いわゆる神様から手厚う扱うてもらっている私ということが、もうそれこそ勿体なくて勿体なくてたまらんということになってお
る。
そこでです、その神様から手厚う扱うて頂くことのためにです、心中心で行く信者が神の中心じゃと。心中心で行く徳者が、神の忠じゃと。これは昨日矢吹さんところの謝恩祭が昨日ありました時に、あちらに参りました時に頂きました、これは御教えでございます。忠義の「忠」という字を頂いて、はなれて「心」という字を頂いた。それをこうひっ付けると「忠」という字になるでしょうが、だから神様を大事にすると言うて、神様をお祀りをした、綺麗にお祭りをしたということはね、おかげじゃないのですよ。
いわゆるいつも心を中心で行く人、いつも心を大事にする人、いつも心を研いて行くことに、また改まって行くことに精進しておる人がです、いわゆる神の忠臣、この「忠臣」という言葉は誰彼がよく使う言葉です。桂先生あたりでも神の忠臣になる氏子にお取立て下さいとお願いなさっとる。私の親教会に行って、まだ信者時代に、親先生に、私はその神様じゃなくてから、教会一番の忠義者にお取立て下さいと願ったことがあります。その教会一番の忠義者にお取立て下さいが、教団の忠義者にならして下さいと願い、今天地の中で、天地の子として、氏子として、どうぞ天地の中で一番の忠義者に取り立てて下さいというのが、私の現在の信心なのです。だからそれを願うわけです。
例えば教会を中心にして、教会一番の忠義者にお取立下さいと願うから、もう一生懸命御用させて頂く、もうそれこそまあどのような御用でも本気で取り組ませて頂いて、御用を大事と思うておらせて頂いた。成程よう御用が出来るということが、教会で丁重に扱われましたですね。まあ矢吹さんのとことで頂いたから、矢吹さんの例を取ると、矢吹さんは永年久留米の初代の頃からの信心で、それこそ大変な御用の出来た、一家で挙げて出来られた方である。ですから久留米教会の中心とお取立て頂いたのがです、段々初代が亡くなられ、それから段々信心が変わって参られまして、それから椛目時代に御神縁を頂かれて、現在合楽で信心の稽古をなさっておられる。
ですから教会で大事に取扱われるということが、そのまま神様に大事に取扱われるということにつながらなければならんのです。「あの人はえらい御用がどんどん出来る」と言うて、教会の先生が不同の扱いをして、その人ばかり大事にするというようなことがやっぱり無きにしもあらず、教会から大事にされる、先生から大切にされる、だから一生懸命出来る。ところがそれではいけなかったこと。これはゆう忠臣の中と心とが離れてしまった。
それで、昨日あちらに参り合わせた方達にも聞いて頂いたんですけれども、だからこれは、お互いが、ひとつ教会の忠臣、言うならば柱の一つにもならしてもらいたい。そういう願いがそのまま神様の御喜び頂けれる、それにつながらなければならない。そこでなら神様の忠臣という程しになると、どういうことかと言うと、いわゆる手厚い信心ということになりますが、その手厚い信心ということは、一生懸命教会でどんどん御用が出来るとか、お供えがどんどん出来るということではなくて、忠臣とは今までは、言わば御用が忠臣であったのを、「矢吹さん、これからはです、神様を大事にすることは神様を麗々しく
祀ったり、お祭りしたりすることだけではなくて、いわゆる心を中心でなからねばいかん、心を大事にすることに本気で努めねば、努めさせて頂いたら、神様を大事にせなければおられない、お祀りが丁重にさせてもらわねばおられないというものが生まれて来る。
言うならば、教会でならば御用が本当に心からさせてもらわねばおられない、お供えもどんどんさせてもらわねばおられないということになって来る。ところが私の知っておる多くの、沢山永年の信心しておられて、あれだけの御用が出来られた、お家では総代幹部あれだけ御用が出来よんなさったのが段々おかげを落して行かれたのが段々亡くなって行くような人の姿が沢山あるということ。これは私が知っておる限りでも沢山あるのですよ。
ですからどうでも私は教会の御用が中心ということではなくて、いわゆる心を中心、心を中心にするところの信心にならしてもろうて、心の上に神様から丁重に扱われるようなおかげを頂かせてもろうて、そのおかげが一生懸命の御用になって表れて来ることになりませんと、いわゆる神様の本当の忠臣ということにはならんと思う。「忠臣」ということは「忠義者」という意味ですよ。神様の忠義者。心の中で、心を中心に行く信者が神の信者じゃとおっしゃるような信者にお取立て頂かねばいけません。
そこで、神を大事にしなければ、心を大事にしなければならない。その心をいよいよ大事にさせて頂くということが、手厚い信心ということになるのですよ。そこで、なら、心を大事にするということがです、又実は難しいのです。なら心を研いて行けば良いでしょう、改めて行けば良いでしょう。その研き方が、改まり方がなかなか具合よういかんのです。同じところをぐるぐるまわって、一向代わり映えがしない心の状態。それは知ってはおるけれども、本気で改まることにも研くことにも努めているようであっても努めていない証拠には、綺麗にはなっていない。その例えば、具体的な信心として、ここでは成り行きを大切にする。最近では御事柄としてすべてのこと。
二・三日前、吉井の熊谷さんが、「親先生、私は大変なことを忘れておりました。大変なことを、御無礼になっておったことに気が付かせて頂きました」と言われるのです。「どういうことですか」と言うたら、「親先生が御事柄、御事柄とおっしゃるが、自分が困ったこと、難儀なこと、嫌なこと、そういうようなことを、御事柄とばっかり受けることを思うておりました。もう当然御の字をつけなければならないことが粗末であったことが気が付かせて頂いた」「いや本なことね」と言うたことでした。
「もう誰が見たっておかげと思われなければおられない。健康であること、いわゆる御利益ですね。おかげを頂いておるということ、そのおかげをです、見失っておる。おかげをおかげと気付いていない。それに御の字をつけて頂いていないということに気を付かせて頂いたということを、確かに当然御の字をつけて頂かねばならない、ということに気を付かせて頂いた」と言っておられますが、確かに当然、御の字をつけておかなければいけないことが、付けておらない。勿論それがわからせて頂いて、ことがどういう嫌なことがあっても、神様が私に下さる修行と思うて、又はそれを神愛の表れだと思うて、御事柄と
してそのことを、頂いて行くという生き方、そういう生き方に撤して行きます時に、心はいよいよ清まって参ります。心はいよいよ改めなければいけません、いよいよ心に研きがかかって来る。そこからおかげが受けられるという、そのおかげを神様から手厚う扱って頂くことになるのです。
昨日ある教会の先生が、それこそ御本部参拝しておるつもりでと言うて、一日がかりでそれこそ参って見られます。昨日お昼頃着かれまして、五時頃までおかげ頂いて、帰られ、いろいろなさいましたが、その先生がこういうことをお届けになるのです。「親先生、先日月次祭に、合楽の方からテープを借りて聞かせて頂いておる。おかげの泉を読ませて頂いておる」
ほんにこれは余談ですけど、昨日伊万里から参って来た、津上さん達甥御さん達夫婦がえらい感激一杯で、今日は御礼参拝させて頂いたと言うて参って来たのですよ。それがいつもおかげの泉を毎日読ませて頂きよるから、いつも自動車の中の時に読もうと思うて入れてあったのがね、なくなったのですね。この方は永年神経痛でずーっと難儀をしとるのです。ところがどんなに探してもなかったところが、踏み込みの中に泥だらけになって入とったと、本当に勿体ない相済みませんと言うてね、それこそ合楽の聖書と言われる程しのおかげの泉をこんなお粗末なことをして相済みませんと言うてから、お詫びしもって帰らせて頂いたら、それきり神経痛が痛まんごとなった」と言う。その御礼に出て来ました。
あれをどのように扱っておられるでしょうかね合楽の皆さんは、これはおかげの泉だけじゃない、日々のおかげだってそうです。それを大切に頂くということなんですよ。只聞いとるだけではいかん、大切に頂くということがです、私はそれはあらゆるおかげになって来るのでございますから、少し今度は有難く頂くということにですね、本当に焦点を置かなければいけませんですね。お粗末な頂き方をしてはいけん、御理解は。まあ一寸余談でしたけれど。
やはり今日の御理解に関係のないことはありませんよね。その先生が昨日御届けされますのにです、「月次祭後に御信者さんが立ってお話しをすることになっとります。もう私の方でのおかげの頂き頭と言われる信者が、私は今日このようにおかげを頂いておるのは、『合楽の親先生が御大祭にお祭りさせて頂いた時に、土の信者になれ土の心になれと教えて頂いた、これに撤しておりますと言われる。土というのは黙って受けて受けて受けぬいて行く。一切をいわ
ゆる御事柄として受けて行く。受けて行くだけではない、それを又上に送って行く、野菜なら野菜、植物ならその植物にです。汚いものを受けて黙ってそれを上に送る程しの思いをもって、おかげを頂いておりますとです、この人は段々霊徳に触れてお知らせを頂く、御商売なんかもここに寄れとお知らせ頂くとよい商売が出来る。それこそもうたまがる程しのおかげを頂いておるです。この方は、で自分のおかげを受けておるのは、土の信心、土の心と言うものを只それに撤しておる。それで今日私はこうしておかげを頂いておる』
と発表しとる時に、丁度そこの親教会の親先生が月次祭度に見えるらしいです。そしてその話を聞いて、取って押えるように言われることがです。『○○さん今あんたが話したのが、あれは間違いじゃ』と言われた。『どこが間違いですか』と。『例えば考えて見てごらん、今教団ではです。いかに現代社会に布教するかということに頭を痛めておる。現代社会に布教する金光教として、どういうことにならなければならないか。その第一として、公害問題に取り組むと言うこと。ならあんた公害問題でも土の信心で有難いと言うて受けるか、そういう信心は間違っとる。それはいけん』と言うて、テカンテカンにやられた訳です。そこでです、実は私の方の教会で教会長と信者でそういう問題が出ましたのですけど、先生どういう風に頂いたら、どれが本当でしょうか。どういう風に信者に教導したら良いでしょうか」とい言われるのですよ。
それで私は申しました。「もう金光様の信心、教祖生神金光大神の信心はね、もう土の信心に撤する以外にないですよ。私は成程今教団で現代社会で布教することを、あらゆる角度からどういうことにならして頂いて、現代社会に布教して行くことのためにと言うて研究されている中で、けれども私はせめて金光教位は、例えばそれは公害の問題であろうとも、人命にかかわるような公害があっちこっちであっているわけです。けれどもそれはとりもなおさず人間の知恵も力も、言わば出来過ぎて、出来過ぎたと言うて、過ぎたと言うて、出来た知恵がです、自分の知恵がです、却って自分で自分の首をしめるように、しめるような結果になって、人間が人間の知恵力で月の世界に行ける程しの、言わば人間の頭脳というものを、進んだということ。
そしてこういう便利な、例えば機械文明と言われるような機械が出来たということなどもです、これはねせめて金光教の信心させてもらいよるものだけ位はね、私は御礼を申し上ぐべきではなかろうか。この問題にどう取り組むか、どう取り組むかということはです、もう他の方達に任せておられたら、もう世界中がこのことに取り組んでおることであり、従っておることであり、現代の超頭脳と言われる人達が、この問題に取り組んでおるのであるから、善後策が講ぜられるに違いはないのだと。
そこで金光教は黙って黙って、「困る困る」と言わずに、人が困る時には、困ることのもう一つ向こうには、御礼を申し上げねばならないこととしてです、御礼を申し上げる信心にならせて頂いて、黙って祈るという行き方に私はならなければいけないと思う。
私は公害問題をどうするか、今あなたの土のような信心と言うて、公害問題でもどうも言わんで黙って手をこまぬいとるか、それは腕こまぬいとるのじゃない、御礼を申し上げるところは御礼を申し上げて、願うところは願う。いわゆるガタガタ言わんで良い、いわゆる土のような信心を、そうした公害問題の上にも祈りを捧げて行くことにならせて頂いたら、いやそうあらなければならないのだけれども、現代教団では、それをそういう風ではなくて、公害問題に積極的に取り組もうとしておるということです。
そこで私はこれが本当だと思うから、せめて合楽の信心頂いておるもの信奉者だけでもね、公害問題ということに対しては、ここまでに至ったことの御礼を申し上げて、そして
困るところは困るところとして願って行けば、願いの働き、祈りの働きというものが、世界を挙げてそれに取組んでおる。よい方法が見出されて来るに違いないことを願って行ったらよいのだと言うわけです。
そういう頂き方をするのが、本当でしたねと言う訳でございましたけれども、けれども私のそういう考え方を、本当に徹底して行くということは大変なことだなあ、なら合楽の信奉者の皆さんの一人一人の場合であっても、それをどういう風に頂き、どういう風に祈って行かれとるであろうかと、何か知らんそのことが非常に不安になって参りました。
私は口を大にして、この事を声を大にして、申しておりますけれども、合楽自体がです、本当に例えて申しますと、言わばその教会の信者さんが言っておられるように、もう土の信心に撤しておる、合楽での信心者、信奉者がどれだけあるかと思うた時に、昨日お話しをしながらね、私はそれを思いました。合楽の信心の信条だという、その信条心上であるところの、土の信心を果たして合楽に御縁を頂いておる信奉者が、どれ程自分のことにしておるかということなのです。
これはいよいよ以て、本気でこれは私自身がね、言うておるだけでなくて、皆さんの一人一人がそれを本気で取組まれることのためのおかげを頂かれるための、これからの信心が要るなと、昨日から今朝にかけて、そのことばっかり考えさせて頂いておりました。今日はこの九十四節でございました。「信心の手厚いのが真の信者じゃ」と仰るが、合楽で信心が手厚いと言うのはです、本当に土の信心に撤している人の姿だと私は思います。
それはどういうことかと言うとです、いわゆる心を中心にしなければ出来ることではありません。そこからです、神様から手厚う扱うて頂く心、手厚う扱うて頂いておる印にこういうおかげを頂いておるというおかげを以て、私は御用をさせて頂かねばならんと思うのです。
真の信者じゃ、信心の手厚いのが真の信者じゃ。で合楽ではね、一生懸命御用が出来とる、毎日お参りがありよるということが手厚い信心ではなくて、それはねしておる間はおかげ頂くかも知れんけど、矢吹さんのそれではないけれども、こうやって離れて来るです。「中」という字と「心」という字と離れて来る。離れて来ると神様は、もう忠臣としての取扱いをなさらない、手厚い信者として取扱いなさらない。そこにあれ程しに一家で信心しござったところが、今頃は金光様の信心は止めてござるといったような家庭が沢山あるのはそういうことではなかろうか。
本気で心を大事にするということに心中心で行くところの信心、それを具体的に「御事柄」とか、「成り行きを大事にする」と言うとか、「いよいよ土の信心に撤する以外にない」ということ、そういう信心を以て、合楽では手厚い信者だとして頂くべきであろうかと、手厚い信心、手厚い信者を目指さなければなりません。そして神様から手厚う扱うて頂くおかげ、しかも限りなく、おかげの頂かれる道をです、極めさせて頂くところのおかげを頂かねばなりません。
そういう信心、信者をもって、信心の手厚い信者ということになる。そういう信心、信
者を目指す信心を真の信者ということになる。簡単に「真の信者になりたい」とは言うけれども、只今私が申しましたことを内容としなければ、真の信者になることは出来ません。だから真のおかげを頂くことも勿論出来ません。
社会問題の○○教会の親先生の仰ったことも、私はいけないということではありませんけれども、金光様の信心、教祖生神金光大神の信心というのは、どこまでも御礼を申し上げるとこは御礼を申し上げにゃ。公害が困った難儀な問題だけでなくて、そこまで至ったまでのお詫びやら御礼を申させて頂く、そういう御礼掛け、御詫び係に、金光教の信者一同がならせて頂くということにならなければ本当の社会に布教するところの金光教にはなって来ないと私は思うのですけども。それは見解の相違ですから、思い方の違いですから人はどうか知りませんけれども、合楽ではそういうのである、合楽ではそう思うのである。私はそう信ずるのである。
そんなら合楽の信者、信奉者が果たしてそういう線に沿うておかげを頂いておるかということをです、フッと思わせて頂いたら、その話をその先生にさせて頂きながら、昨日ほっと不安になった。成程私の言っていることは不安だけれども、その本当のことを合楽の信者、信奉者自体がそれをそうと感じておるだろうかと思いました。皆さん、ここはもう一ぺん皆さんがね、検討されて、例えば公害問題において、本当な意味においての世界に布教するところの金光教ということをです、積極的に形の上において乗り出すということでなくて、心の上で、本気で乗り出すということの信心にならせてもらわねば、本当のことに成就して来ないと私は思います。
今日の御理解、「不同の扱いをすな」と言うところから、「信心の手厚いのが真の信者じゃ」と仰る。今日はとりわけそこんところに焦点を置いて聞いて頂きましたですね。どうぞ。